私がブログを書く意味と、その目的について(当ブログの運営方針)
こんにちは、queです。
ブログをやっていると、なぜ一円にもならない記事にこんなに時間と労力をかけなければならないのだろうと感じてしまうことがあります。もちろん、楽しいから、読んでくれた誰かにとってきっと価値があるものだから、こうして時間をかけて文章を書き、調査し、校正をして投稿しているのですが、時たまふと本当に誰かの役に立てているのだろうかと虚しくなってしまうんですよね。
特に、昨今では、AIを使えば自分で調べて考えて記事を書く必要すらなくなりつつあります。そんな時流の最中にあって、私が経験してきたことや考えたこと、悩んだことなどをわざわざ記事にする必要があるのかどうか、少し考えてしまう瞬間も多いです。
時代の変化もあって、必要としている人に必要な情報を届けるというブログの本質が、少しずつ変化してきているようにも感じます。人が求めているのはただの均一化された情報であって、誰がどう届けるのかについてはかなり軽視されているのではないでしょうか。
ですが、私たちは人間である以上、それぞれがおかれた状況や考え方が違うものです。本当に私たちが必要としているのは、0と1の二進数からなるプログラムではなく、それを使ったときの気持ちや気づきなどの体験にあるのではないでしょうか。
本記事では、ブログを始めたときの気持ちや、なぜこのような時代にあって私が手書きでブログを書き続けているのかについて、ブログの運営方針として書き記しておきます。今まさにブログを悩みながら続けている人にとって、一緒に頑張ってみようという気持ちになれるような記事であったら、同じ悩めるブログ運営者としてとても嬉しいです。
この時代におけるブログの意味と価値とは
先ほども述べましたが、現代において、情報を得ることはとても簡単なことです。知りたいことを短い単語で検索すれば、すぐに情報をパソコンやスマートフォンが返してくれます。レスポンスは最適化されて、情報を知ることにコンマ何秒もかかりません。ブログやサイトは極限まで軽量化されて、「知りたいことをすぐに教えてくれる」、まるで人工知能のようです。
私自身、インターネット黎明期の人間ですから、初めてネットに触れたときの高揚感や楽しさを覚えています。なんでも教えてくれる先生みたいだと。自分の親が教師だったこともあって、世界中のあらゆる疑問に答えてくれるプログラムには尊敬すら覚えました。
でも、私たちがネットを利用してきた理由は、本当にそれだけだったでしょうか。
拙いネット技術の中で、誰かの本音を知り、顔も知らない他人と友達になれて、自分の他人に話せないような本音を表現できて、それに共感してくれる人がいる。多くのインターネットユーザーにとって、誰かのブログを読んだり、それに共感のコメントを返したりすることは、単なる「情報」以上の価値があったはずです。周りに合わせて必死に繕ってきた自分の姿を、インターネットの中では気にせずにいられる。他人に話してもわかってもらえない言葉を、言語も文化も違う、世界の誰かが理解してくれる。ネットの世界は自由で、自分が自分でいられる唯一の場所だったのではないでしょうか。
もちろん、そんな経験がないという人もいるでしょう。ですが、私にとって「ブログ」ひいては誰かの生きた文章を読むことは、現実の世界で言いたいことを言えない自分にとっての、唯一の息ができる場所でした。顔も知らない誰かとコミュニケーションを取ることで、現実の苦しさを忘れることができたのです。インターネットの世界では、誰もが自由に自分自身を表現できる、そんな希望や夢を抱いていました。
ですが、今はどうでしょう。
イラスト、写真、音楽、サービスに至るまで、ありとあらゆる創作物が「インターネットのルール」に縛られています。この言葉はだめ、このテーマはだめ、誰かの助けになりたいだけなのに、ただそのルールに抵触しているというだけで「価値がない」とみなされてしまう。現実世界と同じか、それ以上に、インターネットは厳密に規則の敷かれた管理社会になっています。まるで太陽の光を浴びてキラキラと輝く澄んだ海のように、目の前に悠然と広がっていたインターネットの世界は、今や日のささない濁った水溜りのようです。
この現実に気づいてしまうと、こうやってどこかの誰かに向けて文章を書くことにすら、陰鬱な気持ちになってしまうのです。
なぜブログは形骸化してしまったのだろう
ブログという形式で何かを発信することが少しずつ廃れてしまった理由の一つには、SNSの台頭があると考えています。知りたいことを調べるという過程すら飛び越えて、キャッチーな投稿を表示してくれるのだから、みんなそれに夢中になるのはわかります。一種のエンターテイメントとして、誰かの投稿を楽しむことができる、というのも、拡散する理由として大きいのでしょう。
みんなキラキラした人生を送っている投稿者になりたいと思うわけで、憧れを持つことは生きる勇気と希望をもらえることでもあります。それをインスタントに与えてくれるSNSやインフルエンサーが、人気になるのはわかります。
インターネットが普及しきった昨今では、みんな世界中の情報をリアルタイムで知ることができます。もはや「調べる」というアクションすらしなくていいくらい、たくさんの情報を様々なサービスが運んできてくれます。その結果、私たちは様々な言葉や思考やライフスタイルを知ることができます。
でもなぁ、と思うんです。様々な人が投稿しているキラキラした写真、成功報告の呟き、前向きな格言、それは、その人が葛藤を乗り越えた末にある「最終的なアウトプット」であって、そこに至るまでの過程や考え、悩み、どう思ってどう乗り越えたかということは、全く見えていないんじゃないかと。世間的に成功した人であっても、誰からも羨まれるような人であっても、そこに至るまでに色々なことを経験して、思い悩んで決断して、それを繰り返しているはずなんです。だって「みんなが同じことを同じように頑張ったら、誰からも羨まれる成功者になれる」訳が無いから。それができるなら、みんな自分がなりたい仕事できるけど、そうなったら世の中のバランスが崩壊するよね。みんながみんな誰もが羨む大企業の役員になったとして、部下も下請けもいなければ会社は回らないでしょう。
インターネットの普及は、求める疑問にノータイムで回答を返してくれるという、とても便利な世の中を作り出してくれたけれど、その結果「動機」と「結果」以外のものが排除されて、どんどん人間的な文脈から外れていっているように思う。「やりたい!頑張った!できました!」という一連の流れの中で、よほどの天才でもなければ一番欲しい情報は「どう頑張ったのか」でしょう。どんな境遇の中で、どう工夫して、どんな思いでそれをやりきったのか、「ただの結果」以上に私たちが勇気づけられるのは、その「一番人間らしい悩みながら進んでいく過程」じゃないのかな。少なくとも、私はそうです。
SEOとか、拡散する方法とか、本当はどうでもいいじゃない。届けたい人に届いてくれて、少しでも誰かの背中が押せたら。
誰かが作り上げた文章を読む理由
ブログの中にも、大きく2種類のタイプがあると私は分析しています。一つ目は情報を提供するブログ、二つ目は創作活動や文芸の一環としてのブログです。当然情報を整理したブログの方が需要はあります。纏まった文章を読む人は減ってるからね。
ですが、私は後者の方が好きです。そもそも純文学が好きだし、私小説のあくまで個人的な経験や体験を生々しく表現した文学が好きだから。説明不足でも、自分とは違う考え方を持っていても、リアルな心情や感情を綴ることは、誰かに共感されるものです。「好き」という感情も「嫌い」という感情も、それは作り手が創った内容を読み込んでいないと持てない感情だから。
私もクリエイターの端くれですから、一番辛いのは、「無関心」。「だめだねー」と笑ってくれるでもなく、「いいねー」と目を細めてくれるでもなく、工場のレーンに流される部品のごとく、機械的に選別されるなんでもないもの。
ネットの世界もそうなんじゃないかなと思う。もっと感情豊かだったこの世界は、今や淡々とハンコを押すが如く無関心のまま合格と不合格の判別をつける。合格と不合格の間にある判断基準は、結果としての情報だけ。過程を全部無視して、なんならAIに書かせた情報としては間違っていないだけの言葉を良しとしている。そりゃあ人間よりも既存の知識に関しては正確で機械的だけども、そもそも人間がいなければ「人工知能」なんて成り立たないからね。
曲がりなりにも大学で心理学を学び、心理尺度や統計についてしんどいながらも勉強してきた身からすれば、「人間なんて数字でわかるかい!」と言う話。どれだけデータを取ったとしても、わかるのは傾向だけで、それ以上のことなんてわからない。みんな自分の生活があって、何かに悩んで考えて、大事なものを守りながら生きている。本当に大事なのは、一度しかない人生の価値の話で、これだって人によるし、普遍的な正解なんてない。
でも、そんなドラマティックな展開のない些細で大切な気持ちを、「月が綺麗ですね」と表現したような感性を、私は美しいと思うし、人間として生きるにあたって、一番大事なものだと思っている、
別にうまくいかなかったかもしれない、やってみたけどできなかったかもしれない。それでも、その失敗談すら屈託なく笑って話せるような、そう言う人になりたいと思うし、その姿は頑張っている人に笑顔と勇気をもたらせるかもしれない。日本のヒーローって、かっこいいけど意外とカッコ悪いところがあるんだよ。文豪と呼ばれる人だって、意外とポンコツエピソードで親近感を抱かせてくれるしね。
当ブログの運営方針と、一番大切にしていること
私が記事を書く上で、一番大切にしているのは結局のところは「過程」なんだと思う。問に正しい答えを返すような文章の方が、ニーズも価値もあるだろう。でも、そんな文章はありとあらゆる人間の言葉を吸収した人工知能がいくらでも書いてくれるだろう。困ったときのちょっとした豆知識なんて、AIに回答してもらえればいい。
私がブログに求めているのは、その人の人間性や感性、その人でなければ紡げない言葉やその人だから感じられる気持ちだ。結果がどうであれ、そこに向かって歩んでいく人の、その人にしか見ることができない景色だ。真っ青な空でも、切り立った岩場でも、なんでもいい。その景色を見ている「主体」たる人間が、その人にしか見ることのできない景色を、その人の言葉で綴る。それが「誰かの言葉を識る」ことの醍醐味であり、私が生きる理由の一つでもある。自分の視点でしか見れない世界を、誰かの視点で見ることができるということは、自分の知らない色、形、構成を備えた、刺激的な世界を識ることができるということだ。
AIが創作やって事務作業を人間がやらなきゃいけないのが本当にマジで意味わからん。絵なんて別に描かんでいいから確定申告やってくれよ。